FC2ブログ

三日月クラシック | ルドルフ・ヌレエフの極めて個人的なファンブログ(だった)。非常に申し訳ないけど大体リンク切れ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Posted by ミナモト on  | 

『ヌレエフ―20世紀バレエの真髄 光と影』怪しい部分まとめ

2010年9月に、日本語版のルドルフ・ヌレエフの伝記
『ヌレエフ―20世紀バレエの神髄 光と影』(ベルトラン・メヤ=スタブレ著・新倉真由美訳/文園社)
が発売されました。
日本では長らくヌレエフの伝記が発行されていなかったため、特にオペラ座芸術監督就任以降の記録や業績を調べることがなかなか困難でした。今まで日本で知られていなかったヌレエフの人生を紹介した本書の出版は、大変価値ある、喜ばしいことだったと思います。

しかし、ひとつ残念なことが……。
この本には、明らかに間違いと見られる記述がとても多いのです。
どんな資料にも些細な間違いはあったりするので、最初は読み流していたのですが
量・質的にも、見過ごせないような間違いが多々あると感じました。

バレエファンならすぐわかるような間違いもありますが、あまり知識のない人だって手に取る可能性のある本です。
そういう方にこそ、ヌレエフのこと、バレエのことをできるだけ正確に知ってほしいのですが……。
私自身、本書で今まで知らなかったヌレエフに触れることができてとても嬉しいと思っているので、複雑です。

この記事に、私が気付いた分の間違いをまとめてみました。
一部に閲覧者の方の助けを頂いた部分もありますが、文責はすべて私にあります。
間違いやお気付きの点などがありましたらご連絡ください。
ご協力くださった皆様には心よりお礼申し上げます。

光と影関連記事をすべて表示(詳細な原文比較などがあります)

青字部分は本文からの引用です

P.126
マリア・タルチフ(Maria Tallchief)の父親が「インド人」とされていますが、正しくはネイティヴ・アメリカン。

P.135 “魔法の詩”というタイトルに惹かれ個人的なものを表現してみようと思ったからです。自分を悲劇的と思っていたわけではなく、
このエピソードは『ヌレエフ 芸術と半生』(J・パーシヴァル著)にも載っていますが、そちらではタイトルが『魔法の詩』ではなく『悲劇的詩』となっています。作曲家はスクリャービンとのことなので、おそらく悲劇的詩曲Poeme tragique Op.34でしょう。『魔法の詩』では後半部分と文脈が繋がりません。また、そのような邦題のスクリャービンの楽曲は見当たらないようです。

P.182
ヌレエフとフレディ・マーキュリーの恋愛関係について詳述されていますが、フレディのパーソナル・アシスタントであったピーター・フリーストーンは自著で彼らの関係を否定しています。
ヌレエフ達が互いの関係をひた隠しにしていたか、フリーストーンが嘘を書いている可能性もありますが、「一九九一年マーキュリーが逝去したとき、ヌレエフは彼に寄り添っていた」という記述とは裏腹に、ヌレエフがフレディの病床に訪れたり葬儀に現れたりしたという記録は見つかりません。くわしくはこちらの記事参照。
誰かが嘘をついているのは確実なのですが、藪の中ですね。ちなみにヌレエフのマネージャーのLuigi Pignotti氏も2人の関係を否定しているようです。

P.210 ギレーヌ・テスマーはロシアのプリマの中でも叙情的なバレリーナだった。
ギレーヌ・テスマーは中国生まれのフランス人。

P.212 ベジャールのおかげでルドルフと記念すべき“さまよえるオランダ人の歌”で共演したパオロ・ボルトルッチは~
ヌレエフとボルトルッチが初演したベジャール作品のタイトルは『さすらう若者の歌』(Le chant du compagnon errant)。

P.234P.239で、Michelle Phillipsの日本語表記が「ミシェル・フィリップス」だったり「マイケル・フィリップ」になったり。
人名表記の揺らぎは他にもたくさんあるのですが、これはさすがに混乱しました。

P.213 ヌレエフは彼の末っ子に、“ランチをしに家まで来る気はないか”と尋ねるメッセージを渡してもらった。
この時点では、ヌレエフはもちろんバリシニコフにも子供はいないと思うのですが、何かの誤訳?

P.247 振付家はそれぞれマッシーニ、フォーキン、ニジンスキー、フォーキンで、ドラン・バクスト・ブノワによるオリジナルの装置が使われた。
これでは「ドラン・バクスト・ブノワ」がひとりの人間のよう。それぞれアンドレ・ドランとレオン・バクストとアレクサンドル・ブノワですね。あと、Léonide Massineをマッシーニと表記するのは国内では一般的ではない気が。本書の中では「マンシーニ」という表記もありさらに混乱を誘います……

P.260 プルミエ・ダンスールに配属されていたマニュエル・ルグリのエトワール指名も~
ルグリは飛び級でエトワールに昇進した人なので、プルミエ・ダンスールであったことはないようです。

P.266 トワイライト・サープ
慣用表記はトワイラ・サープ。本来の綴りもTwyla Tharpなので、トワイライトにはかなり無理が。

P.284 彼は喜びと共にパートナーを務めたアンナ・イワノワを抱きしめたが、~
マリインスキー劇場における『ラ・シルフィード』でヌレエフと共演したのは、ジャンナ・アユポワだったかと。
シルフィードがアユポワでエフィがイワノワだったのでしょうか。複数回公演があった可能性もありますが。

番外

P.294 
いくらヌレエフが自由人でも、TVのインタビューで麻薬の使用を認めたりしないのでは。
これじゃフランスは無法地帯です。
前後の文脈的にこの質問は、「スポットライトの陰で麻薬を服用しているのではないか」でなく「スポットライトはあなたにとって麻薬なのではないか」の方が意味が通ると思います。
でも原文がどうだかわからないし、そもそもフランス語なんぞ読めやしないので、これはほぼ完全に私の言いがかりです。でも気になったので一応。


★これより下は、Telperionさんより頂いた情報の転載です。
 Telperionさん、ありがとうございました!


P.128 "白鳥の湖"などで独自のバージョンを披露し六七年からスウェーデンロイヤルバレエ団を率いていた。
1961年にヌレエフと初めて会った当時のエリック・ブルーンの描写。ブルーンが独自の「白鳥の湖」を上演するのは1967年ごろで未来のことだが、上記の文ではこのことが分からない。スウェーデン・ロイヤル・バレエについては年が書いてあるのでかろうじて未来のことだと分かるが、「スウェーデンロイヤルバレエを率いることになる」といった表現のほうが普通ではなかろうか。

P.150-151 しかし最後の二ヵ所の公演都市サンフランシスコとトロントでは、一連の事件を起こしてしまった。サンフランシスコではヒッピーのパーティに参加し、マーゴットと共に逮捕され、トロントでは警官に足で一撃を加え手錠をかけられ連行された。しかし狙った所に達しなかったと証明されすぐに釈放された。
ヌレエフがトロントで逮捕されたのは1963年、サンフランシスコでフォンテーンと共に逮捕されたのは1967年。トロントでの逮捕理由は路上で踊ったから。

P.170 彼の最良の弁護士であったニゲル・ゴスリング
Nigel Goslingは妻Maude LloydとともにAlexander Blandの名で批評を書き、夫婦でヌレエフを息子のように庇護した。そういう素性を知っていれば、この「弁護士」はヌレエフの擁護者という意味の比喩だろうと想像がつくが、知らない人にはGoslingが職業弁護士としか思えないだろう。

P.176 バイロイトに旅したとき、ルドルフはソヴィエトの海軍兵たちが大勢いる港や海岸をうろついた。
ドイツ内陸部のバイロイトに海岸があるはずがない。Solway本の章"Nureyev and Fonteyn"に"In nearby Beirut he insisted on walking around on his own late at night despite the presence of Soviet ships in the harbor."(近くのベイルートで、港にソ連の船があるにもかかわらず、彼は夜更けに一人で散歩すると言い張った)という記述があり、ベイルートならつじつまが合う。

P.178 その時代"プシコーズ(精神異常)"と"ブラームスはお好き?"の成功でパーキンズはスター俳優であり、
アンソニー・パーキンズの代表作はアルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」。またフランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き」を原作とするパーキンズ出演映画の邦題は「さよならをもう一度」。

P.184-185 現在ウォール・ポッツは(中略)管理している。
Wallace Pottsは2009年6月29日に病死。原本出版後7年も経ってからの訳本出版なのだから、原本に「現在」とあるのをただ写すのではなく、せめて「訳注:2003年当時」くらい付け加えてほしい。

P.185 ジョージ・バランシンはルドルフがクレオント役を演じた"ル・ブルジョワ"を掲げてニューヨークにやってきた。出演していたアメリカンバレエシアターの生徒たちの中に、ボストン生まれで二三歳の褐色の好青年ロバート・トレイシーがいた。
ヌレエフがクレオントを演じたのは1979年だが、1948年にNew York City Balletを創立したバランシンは、当然ながらすでに何十年もニューヨークを拠点にしている。ニューヨークにやってきたのはヌレエフだろう。
また、トレイシーはバランシンが創立した学校School of American Balletの生徒。そもそもNew York City Balletを率いるバランシンが別のバレエ団であるAmerican Ballet Theatreから出演者を選抜するとは考えにくい。
なお、このバレエのタイトルは"Le Bourgeois Gentilhomme"。初出のときくらいきちんと全部書くか、「町人貴族」と訳すかしてもらいたいところ。

P.215 一九七四年バレエに憧れと情熱を持っていたマーガレット王妃は(後略)
この文はP.202の脚注であるが、P.202には「マーガレット&スノードン大佐夫妻」「マーガレットと娘のサラ」「イギリス王室の恐るべき子どもたち」といった記述があるので、このマーガレットとはイギリス女王エリザベス2世の妹マーガレット王女のこと。エリザベス2世が1952年に即位して以来、イギリスに王妃はいないはず。
ちなみにマーガレット王女の(前)夫はスノードン伯爵と呼ばれ、英語wikipediaを読んでも軍隊に所属していたという記述はない。なぜ「大佐」なのだろうか。

P.254 現職の二名のバレエ教師の一人、エフゲニー・ポリアコフはバレエ団の運営方法を知っています。もう一人のクレール・モット、彼女は施設に詳しい。
Eugene PolyakovとClaire Motteはバレエマスター。バレエ上演の総責任者とかいうことで、パリ・オペラ座バレエの組織内でも5本の指に入る首脳陣。それを「バレエ教師」と呼ぶのはあまりに誤解を招く。

P.263 "シンデレラ"を上演した。それは一九三〇年代にハリウッドで戯曲化された作品の改訂版だった。
ヌレエフ振付「シンデレラ」は1930年代のハリウッドを舞台とし、シンデレラがオーディションに合格して映画スターの仲間入りを果たすというストーリー。DVDも出ているし、2010年にパリ・オペラ座バレエが来日公演しているのだから、日本語の資料に当たるだけでも舞台改変については簡単に分かるはず。

P.264 彼女はクロード・ド・ヴルパンについて話してくれた。「彼は"ロミオとジュリエット"の名場面を再現してくれました(後略)」。
これを読むと「彼」がクロード・ド・ヴルパンを指すと受け取りたくなるが、Claude de Vulpianはヌレエフがパリ・オペラ座バレエにいた当時の女性エトワールなので、この解釈はあり得ない。「後略」とした部分を読む限り、「彼」はヌレエフを指すように見える。原文を読んでいないので断定はできないが、最初の文は本当は「クロード・ド・ヴルピアンが話してくれた」ではないかと強く疑っている。

P.268 ローラン・イレール、シルヴィー・ギエム、イザベル・ゲラン、マニュエル・ルグリ、マリー-クロード・ピエトラガラ、カデ・ベラルビ、シャルル・ジュード、フロレンス・クレール夫妻を昇進させた。
ヌレエフが芸術監督に就任した当時、ジュドとクレールはすでにエトワールなので、これ以上昇進させようがない。
またヌレエフ監督時代はスジェからプルミエールに昇進したにすぎないピエトラガラは、むしろ冷遇されていたように見える。

P.272 オペラ座のコールドバレエ一八〇名中エトワールは男女六名ずつ一二名のみ。
ヌレエフ監督時代の83~89年、エトワールの人数は合計14~18名を推移。2003年はたまたま12名くらいだったらしいが、定員として決まっているわけではない。
またフランス語のcorps de balletはバレエ団全体を指すこともあるようだが、日本語でコールドバレエといえばもっぱら群舞ダンサーのことなので、エトワールをコールドバレエの一部と表現するのは非常に違和感がある。文脈によっては「バレエ団員」などと置き換えたほうが親切かも。

P.282 姉のラジダとその娘たちビクトルとユーリ、リリアの娘、姪のアルフィア
ビクトルとユーリはラジダの息子。リリアの娘がすなわち姪のアルフィアなので、「姉リリアの娘アルフィア」でいいと思う。

P.285 ダンサー、ジャン・ギズリックスの別れの夕べのように、いくつかの公演は奇跡を起こした。
ヌレエフとパトリック・デュポンが定年退職のギゼリクスを送るために「さすらう若人の歌」を踊ったのは、ヌレエフが芸術監督を辞任した後の90年。なのに『光と影』では、辞任前の89年に踊られたように記述している。

P.295 ポリアコフが彼のために書いたバレエ"Il Cappotto(外套)"を上演した。またフレミング・フリンジの"ベニスに死す"を彷彿とさせるバレエを創作した。
ネットで読める英米の新聞記事によると、Flindtは晩年のヌレエフのために「外套」「ヴェニスに死す」を振付けた。「ポリアコフが書いた」とか「『ヴェニスに死す』を彷彿とさせる」とかは事実と合わない。フランス語の動詞creer(最初のeの上にはアクセントのような記号あり)は「創作する」「初演する」の意味があり、原文では後者の意味で使われていたのだろうと想像する。
なお、Flemming Flindtは日本ではフレミング・フリントと呼ばれる。

P.304 芸術文化部門のレジオンドヌール勲章を受け取った。
芸術文化勲章とレジオンドヌール勲章は別。ヌレエフが92年に授与されたのは芸術文化勲章の最高位(Commandeur des Arts et des Lettres)。

P.304 それ(92年10月8日の「ラ・バヤデール」舞台挨拶)が彼の最後の凱旋、最後の外出となった。(中略)十月十日、彼はシャルル・ジュード、フローレンス・クレールと共にサン・バースに向かって飛び立った。
St. Barts行きは外出に入ると思うが、「外出」の原語は何だったのだろうか。(「公の場での露出」という意味の言葉ではないかと勝手に推測)

P.307 チャイコフスキーのアンダンテカンタービレの第一章が流れ
チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレは、弦楽四重奏曲第1番Op.11の第2楽章の通称。1つの曲なので、たとえ冒頭部分の抜粋だったとしても、第1章という呼び方はしない。

P.307 バッハのフーガ一三番の急激な終わり方
1993年1月13日のNew York Timesの記事に「Bach again (the incomplete, suddenly broken-off final fugue from "The Art of the Fugue") 」という記載があることから、このフーガはバッハ作曲「フーガの技法」の未完のフーガ。正式名は「Contrapunctus 14」または「Fuga a 4 Soggetti」らしい。名指ししにくい曲名ではあるが、正しく示したいなら少なくとも「フーガの技法」というキーワードは必要。

P.313 レオニド・マッシーニ プレサージュ
巻末の「ヌレエフがパリ・オペラ座バレエ団に招聘した振付家」リストで1988-1989シーズンにある振付家と作品名。しかしレオニド・マシーンは1979年に死去しているので、招聘されたというのは無理がある。多分マシーンのPresagesがオペラ座初演だったのだろうが、ならリスト名は「ヌレエフのもとでパリ・オペラ座で初演された作品」のようにするべき。

P.313 ダニエル・エズラロー In the Middle Somewhat Elevated
巻末リストの1986-1987シーズンにある振付家と作品名。しかし"In the Middle, Somewhat Elevated"といえば、ウィリアム・フォーサイス振付作品のなかでも特に名高い。パリ・オペラ座バレエの情報が豊富なWeb サイト"Danser en France"によると、フォーサイス振付の"In the Middle, Somewhat Elevated"が世界初演されたのと同じ公演でEzralow振付の"Soon"も世界初演された。たあいのない転記ミス…ですむのか?

P.313-315 オペラ座作成
巻末リストに多数あるが、これは明らかにフランス語の動詞creerの翻訳ミスで、正しくは「オペラ座初演」。

番外:

P.301 ニューヨークポスト紙は(中略)辛口のクリヴ・バルヌさえ
Clive Barnesはこの文だけでも推測できるとおりアメリカの新聞おかかえの批評家(当時)で、英語wikipediaによるとイギリス出身のアメリカ人なのだから、英語発音のクライヴ・バーンズとするほうが自然。誤訳と呼ぶのは強すぎるが、この訳本での人名表記は全般的に行き当たりばったり感が強いので、その例として挙げておく。すでに知っている人が読めばすぐ「ああ、あの人か」と分かる人名表記を心がけるのが読者への気づかいだと思う。

スポンサーサイト
Category : ヌレエフ情報
Posted by ミナモト on  | 11 comments 
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。